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とりあえず一晩明けてガス抜きも済んだので、
考察というほどのものでもないのですが、
ふと思ったことをちょっとだけ覚え書きしておきます。
「大敦煌」中部(15~32話)全ての内容(結末含む)についてのネタバレを含みますので、
中部(第二部)を最後まで観ていない人は注意。



中部の物語を最後まで観るとまず引っかかるのが、
最終回において、いわゆる「悪役」が、物語の中でほとんど裁かれていない、という点です。

普通の、まっとうな話ならば、悪者は何らかの「罰」を受ける。
それで観ているこっちは、しっくりと、腑に落ちるわけなのですが、
それがこの大敦煌・中部ではほとんどなかったので、
観終わった後で、ああも気持ちの悪い感触があったわけです。

で、
これについて改めて考えてみたのですが、
つまり劇中の登場人物は
A:「過去」に囚われる人

B:「過去」に囚われない、囚われようとしない、乗り越えた人
この二種に、かなりきれいに分けられるということです。

で、満遍なくAのほうは不幸な結末を迎えているのに対して、
Bはハッピーエンドを迎えている。
すごく不思議なのですが、
こうして整理してみると、最初に述べたような気持ち悪さというのも
メインキャラについては、きれいにその通りになっているんですね。


以下、人物別に見ていくと、

パターンA:「過去」に囚われる人

・秦文玉
言うまでもなくAですね。
「過去からの遺産」を守るということ
それが最初から最後まで、ずっと彼の行動を規定していた要素でした。
それから同じく「過去」の存在である兄
これもまた文玉を縛っていたわけで。

逆に、春霞という「今」「未来」を得たことで
過去のものである兄を棄却しようともしたわけなのですが、
結果的には±で相殺とはならなかったようです。
(仮に春霞が「敦煌の遺産なんかいいから、私と逃げて」
みたいな選択を文玉に迫っていたとしたら、
また違った内容になっていたかも知れません。)


・春霞
すごくわかりやすいAの例。
過去の存在である秦文明
結局最初から最後までずっとそれに縛られていたがために、
バッドエンドを迎えました。


・ヘンリー・ベイカー
目的こそ敦煌の財宝を見つけ出すことでしたが
それって、劇中で語られていた内容からすると
下敷きには「捨てられた妻への想い」(=過去のもの)があったような気がします。
あとやっぱり過去のものである敦煌の財宝そのものに対して
価値を見出していたというのもあるしね。
(単純に金銭的価値というだけではなく。)
そういうわけで、結局この人もAですね。


・姜孝慈
この人の至上命題である「北京に戻る」という、
これもやはり過去の思い出に引きずられてBAD END。
パターンA。


・紅蓮
紅蓮に限らず、まず胡楊の存在意義自体が「過去のものを守る」という
Aパターンに該当しているわけで、
劇中では結局ジリ貧、壊滅しています。
で、紅蓮はまたそれだけではなく
「文玉への捨て去れぬ思い」という過去のものをいつまでも引きずって、
それが彼女の目を度々曇らせたり、胡楊を危機に陥れたりしたわけです。



・馮大剛
「ダバシ親方から託された敦煌の秘法のありかの説法図」を
ずっと引きずって(親方はすでに死んでいるので、当然「過去」)、
杏花と一緒になれなかった後もまだ杏花への思いを引きずって、
で、結局最後はGAME OVER。



パターンB:「過去」に囚われない、囚われようとしない、乗り越えた人

・ジョン神父
これはすごくわかりやすいBですね。
この人ほど「過去」に囚われていない人物もいないんだよな。
見事にやりたい放題やって、ベイカーとの関係も過去にして
一人で美味しい目を見てしまいました。


・馬全徳
この人はパターンBですね。
それまでの過去の自分ときれいさっぱり訣別して、
どこかへ新たな人生を探しに行ってしまった。


・厳文道
やっぱりこの人も過去には囚われていない。パターンBです。
親友の年弟だろうとなんだろうと、自分の将来のためには
アッサリと捨て去ってしまうわけです。
で、何もおとがめなし、成功している。



+++++++++++++++++++++++++++

と、ずいぶんきっちり分けられていることに驚きます。
普通は、Bでも、あんまりにも非道なことをした場合は
シナリオの方から何らかのかたちで制裁が下るはずなんですが、
少なくとも劇中で描かれている範囲においては、そういうものは全くありません。

さすがにここまであからさまだと、
意図を持って描かれているものなのかなと考えたくもなりますが…

逆に、
話の上でバッドエンドをこそ迎えたものの、そこから逆説的に
パターンAの過去のものを大切にしようとした人たちが
格好良く、何らかの情念を持っていたように描写されているかというと、
なんかあんまりそうも思えないし…

「時代の転換期」というパラダイムシフトの激しい局面では
そういう柔軟な考え方、対応こそが生存のために重要なのだけど、
かといってそれが一番というわけではなく、古いものに殉じてこその美しさもある、ということか?
(ただその割に、繰り返しになるが古いものに殉じてる人たちが
あんまりちゃんと描かれていないっぽいのが問題だ。)

この意図というのが何なのか、
まだ下部を観てみるまでははっきりと答えを出せないんですが、
とりあえず、中部ではそういう構造があった、ということを
ここに覚え書きとして記しておくものであります。
(単なる考えすぎとか、こじつけとか、
そういうオチで終わる可能性もなきにしもあらずですが^^;)

 
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